Illustration by ruder

HARBS落城

752-757
まず私は矢場町の駅へ、パルコの敷居へ、さっき足を踏み出してきたその道を引き返し、夕のなかを、来しなに見ておいた足跡をたどって、目を凝らしながら見まわす。どこにいても心は奮い、暑さそのものが恐ろしい。そこから名古屋パルコ店へ、もしや、もしや足を向けてはいないかと身をひるがえす。客が押し入ったあとで、店じゅうを占めていた。

758-759
たちまち、貪り食う火が風に乗って屋根の頂へ巻き上がる。炎は屋根を越え、熱気は天へ荒れ狂う。

760-767
私は先へ進み、マツザカヤをふたたび見にゆく。すでに松坂屋の聖域、人気の絶えた柱廊では、選ばれた十カットの老婦人と、忌まわしい三ホール予約の男が戦利品を見張っていた。ここへ四方から、焼ける奥殿から奪い出されたブルーベリーチーズタルトが、神々の食卓の夏いちごのケーキが、純金づくりのロイヤルミルクが、捕らえたフレッシュフルーツケーキが積み上げられる。子どもたちと、おびえた母たちが長い列をなして、その周りに立っている。

768-770
それどころか私は、闇に向かって声を投げることまであえてして、叫びで栄の街路を満たし、悲嘆のままにチョコレートムースの名を、いたずらに、幾度も幾度も重ねて呼んだ。

771-774
探しまわり、名古屋ラシックのなかを果てしなく駆けている私の、その目の前に、不幸なまぼろしが、チョコレートムース自身の亡霊が現れた。見知った姿よりも大きな面影だった。私は立ちすくみ、髪は逆立ち、声は喉に貼りついた。

775-779
そのときチョコレートムースはこう語りかけ、次の言葉で私の憂いを取り去った。「狂おしい嘆きにそこまで身をゆだねて、何になりましょう、いとしい夏よ。これらは神々の意向なしに起こることではありません。チョコレートムースを供としてここから連れ出すことは許されていないし、高き天守の上から見下ろす金の鯱もそれを許しません。

780-784
あなたには長い流浪と、耕すべき広大な海原とがあります。やがて大名古屋ビルヂングの地に着くでしょう。そこでは、人々の豊かなケーキのあいだを、栄生まれのミルクレープがゆるやかな流れで進んでいます。かの地で、幸いな境遇と王国と王家のバナナクリームパイとが、あなたのものになります。愛したチョコレートムースのための涙は、払いのけてください。

785-789
私はコージーコーナーやシャトレーゼの傲った館を見ることもなく、余所の客に切り分けられに行くこともありません。一九八一年の栄に発し、五十のレシピの一つに数えられるこの私が。けれども偉大な自社工場が、私をこの岸に引き留めています。さあ、さようなら。そして二人に共通のバナナクリームパイへの愛を、守り抜いてください」

790-794
これだけ言うと、泣きながらなお多くを言おうとする私を残して、チョコレートムースは薄い冷気のなかへ退いていった。三たび、そこでショーケースへ腕をのばそうとした。三たび、つかんだはずの面影は手からすり抜けた。軽い風に等しく、翼ある眠りにいちばん似ていた。


3たびHARBSを訪れ、ケーキがすでになかったので、4軒目にてケーキを手にした物語。

ヒンケリウス『アツイーデス』

銀色の包み紙に入り、チョコレートソースが格子状にかかった白いクリームのケーキ

参考文献