Illustration by ruder

紳士のふり

 紳士という生き物は、みな、隣の紳士をまねるものである。  お隣さんが芝を刈れば、自分の庭の芝が伸びてなくてもどうにかこうにか芝を刈り、ボンジュールといえばボンジュールという。曖昧に笑えば、曖昧に笑うし、豪快に笑えば、意味が分からなくてもすばらしいジョークだと認識する。  いったい、どうしてそれが流行の最先端で、どんなところがいいものなのかは、だいたいの紳士がよく知らない。  さて、こういうわけだから、紳士に紛れ込むのはとても簡単なことだ。かたちばかり紳士のふりをすればよい。すなわち、紳士をまねてみるのだ。  白いハンカチーフやおしゃれなカフスボタンなど、紳士のよく好むところだ。  雨が降りそうな日は、男は紳士用の一式を着込み、ピッと伸ばしたシャツを着て、襟を立て、街に繰り出して歩くことにしている。  これ見よがしにステッキを振り、威張って通りを歩いてみる。するといくらかの紳士の視線がじろじろ男に突き刺さる。もちろん、直接見るのは失礼にあたるから、そんなにロコツなことはしない。新聞越しだったり、眼鏡越しだったり。  男は、完璧に紳士になじんだところで、思い切ってジャケットを脱いでみる。すると町中の紳士らは無礼にならないようにちらちらこっちを見て、真似じゃなさそうなタイミングで、とても寒い日でも、いかにも暑くて我慢できないというふうに、ぱっぱとジャケットを脱いでいく。その紳士をまた別の紳士が真似るから、影響は波のように広がっていく。  曇り空の中、男は不意に黒い傘をさした。ぱっと町中にはじけた傘のスペースが幅を利かせる。紳士も同じように傘を差し始める。傘のないものは、失態を恥じ、慌てて家に帰るか、洋服店に駆け込んで傘をそろえる。ここまでくると面白いものだ。  ぽつり。本当に雨が降ってきた。天気予報の通りだ。  満足のいった男は、通りすがりのご婦人に傘を渡す。紳士は慌てて紳士たる根源的な本分を思い出し、散り散りになってお困りのご婦人を探し始める。全ての男が紳士ではないから、女性の数よりは、紳士の数の方が少ない。それでようやく全てのご婦人に傘がいきわたって、紳士たちはずぶぬれになりながら慌てて散り散りになっていく。 「あら、あなた、帰ってらしたの」 「まあねえ」  男は紳士用のジャケットを脱ぎ、シャツを脱ぎ、帽子をはいで、ステッキをしまって、いつもの作業服に着替える。  雨が降りそうな日には、そうやって紳士の群れに紛れ込んで、一番目の紳士のふりをするのが男の楽しみだった。  クローゼットの中にはスーツのとなりに汚れてもいい上下つなぎがかかっており、つまるところ、彼はペンキ屋である。  妻は不思議そうに眺めているが、雨の日はペンキが塗れないので、仕方ない。  タオルでごしごし水滴を拭いていると、見覚えのないカサがあることに気が付いた。 「そのカサはどうしたね」 「ああ、表で買い物をしていたらね、紳士の方がゆずってくださったんですのよ」  妻は困惑した顔で言う。男は「それはよいことだ」と言って自分からコーヒーを淹れることにした。家の中だと、ミルクと砂糖をたっぷりにしても、誰にもとがめられないようだ。


『紳士のふり』 お題 イタリア式のわずらい